2019年11月1日金曜日

フィンランドに学ぶ PISA と次の教育

フィンランドには医学の塾があるという話をたまたま見つけて、これは次の時代を示しているんじゃないか、と感じました。 記事の中に書かれていたのですが、フィンランドは PISA の点数が高くて教育のレベルが高いと思われている国である一方、分数を理解している子は全体の 2 割しかいないらしい。 本当に驚きました。 そしてフィンランドで起きていることは、良い意味で日本でも起きるのではないかと、感じてしまいました。



PISA と教育の現状は一致しない

この話をするためには、まず第一に PISA について語らないといけません。 PISA は国際学力テストで、日本でも重要視されている指標に思いますが、私は PISA については昔から疑問視しています。 なぜかというと、ゆとりとは言えロートルな教育を受けた身からすると、最近の小学生は「平均的に見れば」明らかに算数/数学に課題があることが増えています。 大学でも高校の内容を教えるようになった。 決めつけはよくないし、代わりに伸びたこともたくさんあるけど、こればかりは感じざるを得ない。 最近ようやく「社会人や中学生が小学3年のところで躓いているケースが多い」という情報で報じられるようになりましたが、ずっと前からこの問題は起きている。 しかし PISA ではそれを判定できていない。

最近の人はこの基礎能力の低下についてはピンと来ないかも知れませんが、練習量が減っているのが原因です。 昔は当たり前にやっていた重要なことを公教育でやらなくなった結果、ロートルな教育に存在したセーフティネットがなくなってる。 ただこのような「何を改悪してこうなったのか」という感覚を持っている人は年齢の変化で減っていくし、平均が落ちていることに気付かず教育をしていくので、 さらに平均が落ちていく悪循環があり得ます。 というか、かなりの確率でそれが起きていている。

それなのになぜ日本は PISA の点数が落ちないか。私はずっと不思議に思っていました。 これについては良い解答を見つけ、私もこれを支持しています。 フィンランドの大学教授や大学講師の方々が、貴重な意見を記事に書いています。 PISA は日常的な数学知識を測るだけであり、高校以上の力は明らかにならないのです。 PISA の点数が上がったかどうかでわかるのは、中学校の常識レベルがどれだけできているかに過ぎず、大学や職業レベルの競争力の指標としては機能しないのです。 中学校の常識レベルと計算力なども、また少し違う尺度なのかも知れません。とにかく信用し過ぎるのは良くなさそう。


学校 (大学含む) は構造的に学力低下の問題を抱えている

小学校教育の問題 (正確にはゆとり教育ですが) は、小学校だけで済む話ではありません。 多くの大学で高校数学の内容を教えざるを得なくなりました。 高校でも同じ問題は起きており、中学では中学ギャップと呼ばれるものができました。 そして社会人レベルでも小学校教育のツケが出始めている。 ゆとり教育のように基準を一度下げると平均が下がるので、下がった平均に合わせて、試験のレベルも下がっていくという事がよく起きます。 資格試験も同じことが言えて、昔と今ではかなり基準が変わっています。 一番キツイのは大学で、本来は不要な前提知識の解説が必要になる。

そこに人口減少が絡んでくると、問題はもっと深刻になります。 人員確保のためにほとんどの組織でレベルを下げるしかないという問題が起きます。本当に良くない。 トップ層は今も昔も底なしにデキるので関係ないのですが、平均として見るとこの問題は明らかに存在します。 だから平均は上げていかないといけないんですが、現実にはつらいところがある。 この波から逃れたいと考える現れなのかも知れませんが、都内を中心に中学受験が増えています。 他にも公立の中高一貫校化の流れも結構見て取れます。都内と地方の温度差は凄いものがある。 結果として教育格差はどうしても生まれてしまう訳です。

ここまでは既に起きている話。 ただ本当はもう少し先があると思っています。 なぜなら最低でも偏差値75くらいまで突き抜けないと、教育問題の影響をモロに受ける大学の影響をどうやっても受けてしまうんですよ。 偏差値70くらいだと、うーんという感じがします。 中高が高くてもたいていの大学は門戸を開くために偏差値がガクンと落ちるし、やはり偏差値75とは教育格差がかなりある。 とは言ってもほとんどの人は偏差値75など必要としていないし、本当にひと握りの人しかなれない訳で、残りの人はどうするのかという事になります。 そもそも偏差値自体どうなのよ、と思うこともよくあります。 そんな中、フィンランドは医学でさえ塾があると聞いて、ハッと思いました。

ようするにこれ、医師という一定ラインを超えるに当たっては公教育では不足しているから、塾で学ぶしかなくなってるということですよね。 だから医学に関して最短のパスを用意すれば良いじゃないかと。 もう世界ではそういうところまできてるんだな、と。 欧州は人の出入りが多いし、社会システムの職業決定は厳格なところが多いので、レベルを保つ仕組みは日本より進みやすいと思う。 たぶん日本の先を行った結果がこれ。


人口減少の影響を受けない教育をしよう

PISA や昨今の教育問題を見ていると、そろそろ常識を疑って、新しい教育を考えても良いのかなと思っています。 これは実のところ高校生の時からずっと思っていたけど、当時は代替になるものがなかった。でも今ならある、というのが理由です。 何かを学ぶとき、独学でも塾でも学校でも会社でも良いとは思うのですが、 教育力低下の影響をモロに受ける学校って、トップ以外だと効率悪いんですよ。 昔は板前とか大工とか、早い段階から丁稚奉公をしていたものですが、ほとんどの分野はそれで良いはずなんです。

そもそも大学受験は非効率の塊です。 現代社会で漢文や古文を習う必要はないし、歴史も最低限覚えれば足りる。 そのようなことに費やすより、一芸一点突破すれば良いじゃないかと。 学費も、国立大学/大学院だと年間50〜80万円、私立大学/大学院だと70〜200万円ほど掛かります。 わかりやすいので最近炎上中のプログラミングスクールを例に挙げますが、叩かれてはいるもののスクールの内容が大学を上回っていることは今や多いと思うんですよ。 しかもガチでやったら適当計算でも 1/4〜1/8 くらいのお金で済む訳でしょ。

もちろんトップ層の国立大学/大学院のレベルは素晴らしいと思ってますが、 理論を学ぶのか実践を学ぶのかは大きな違いがあって、プログラミングスクールのほうがすぐに役に立つ。 また大学でサイエンスを学んでも 9 割以上の人が社会人になってサイエンスをしないのは、大学教育の大いなる矛盾です。 しかも最近の大学は、偏差値が下がってくると研究をしていないところが多いので、サイエンスを学んでいない人のほうが多いと思うんですよ。 あと 4年間の中に遊びの要素が含まれているので、密度の高さも違う。 つまりプログラミングで突き抜けるなら、大学よりスクールなのは最初から自然なのです。 昔もこういうのがあったらなあと、正直うらやましく感じますね。

さらにこの変化は日本だけではありません。 世界中でプログラミングの早期学習は始まっているし、大学に対する見方自体も変わってきています。 日本はかなり遅れているほう。 最近は世界の名だたる企業でも大卒の肩書きは不要になり、Googleは博士号を付与する仕組みを作り始めました。 実力重視の世界では、大卒の肩書きは求めていません (ただしビザについては注意)。とても自然と思います。 日本でも大卒の肩書きは既に不要と私は思いますし、プログラミングに限らず、同じことがあらゆる分野で起きるんじゃないかと感じます。


新しい学校の形、知の高速道路

そしてフィンランドの医学塾の話を見ていると、あらゆる観点から人口減少の影響を受け、思惑の飛び交う学校より、 別のものが選ばれる可能性はそろそろあるのではないかと、感じました。 医学でさえ塾として通用するのだから、物理塾や化学塾とかも絶対いけると思うし、 別に塾じゃなくても新しい何かが生まれてもおかしくないと思う。 石神千空キッズだらけになったら凄い面白い世の中になりそうだな。 実際、最近は異世界チートクラスの小中学生がゴロゴロ居て、学校で管理するのもどんどん無理になっています。 そのような彼ら/彼女らを、学校に縛られないよう、とことん伸ばすべきでしょう。 そのためには、あらゆる分野で作られ始めている「知の高速道路」に乗る/乗せてあげることが大切なのだと思います。

そんな訳で、学校は最低限を提供できれば、それで良いと私は思ってる。 ただ算数/数学は文理問わずどんな分野でも必要なので、もっと鍛えたほうが良いんじゃないかなあ。 分数ができないとかは、さすがに問題です。 ただこれに関しては、私立の考え方も面白くなってきました。 最近は算数だけの受験みたいなのも出てきているようで、頭良いなと思ってます。 算数1科目入試は STEM 教育の延長線として、2019年から増えたみたいですね。 算数の難問が解ける=国語もできるし、算数さえ突き抜けてれば、ほとんどの分野で突き抜けられる素養があるからなあ。 色々なところに変化の兆しは既にあるようには感じます。

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